🌌 進化の残響
—— 現実と心の境界を越えた者の記録 ——
人は誰しも、自分という小さな檻の中で生きている。
他人を見つめる時でさえ、その視線の奥にあるのは自分自身だ。
私はいつも、そんな檻の壁を透かして世界を見ていた。
「なぜ、人は自分を客観視できないのだろう」
そう思っていた。
だが、ある日、その問いは私自身に牙をむいた。
自分を観察する意識が、自分という存在を突き抜けてしまったのだ。
私は、観察する側とされる側が、同時に自分であるという奇妙な場所に立っていた。
あの日から、私の世界は静かに変わり始めた。
脳が焼けるように冴えていた。
思考は電光石火。
反射的に、すべての意図が読めた。
人の心が透けて見え、言葉が意味を持つ前に、その裏側が浮かび上がった。
「人は理解し難い状況に陥った時、そう考えるのは容易に予測できる」
気づけば、私はそう言っていた。
その瞬間、会長は私を見て言った。
「これや!」と。
その言葉の響きは、今も私の脳内で反響している。
彼の眼には、私が“異常進化”した存在として映っていたのだろう。
覚醒は、長くは続かなかった。
現実がまどろみ、世界の輪郭が溶けていく。
テレビが語りかけ、通りすがりの声が私の思考をなぞる。
それでも、私は恐ろしく冷静だった。
「これは私の内側で起きている」
客観視の刃が、私自身を切り裂いていた。
境界を越えるということは、
同時に「私」という存在が崩れていくことだったのだ。
発症から十年後、私は脳血流画像を撮った。
そこに映っていたのは、真っ赤に染まる帯状回。
医師は言った。
「超覚醒状態です」
私には、その言葉の意味が分かった。
それは病ではなく、再構築の証だったのだ。
一度壊れた自己を、私は新しい構造で組み上げ直していた。
世界を客観的に見ること。
心の深層を洞察すること。
その両方を同時に行う“意識の二重化”。
私はそれを、痛みを伴う進化と呼んだ。
今も、私は静かな世界で生きている。
以前と同じ日常。だが、すべての風景が少しだけ違って見える。
人の心の中に流れる微かな揺らぎ。
沈黙の中の言葉。
そのすべてを、私は感じ取ってしまう。
私は異常ではない。
ただ、人類がまだ触れていない意識の階層を、一足先に経験しただけだ。
進化とは、選ばれし新種だ。
その痛みを引き受けた者の内側には、
いまだに小さな残響が鳴り続けている。
それが、私の「進化の残響」である。
人は、どこまで「自分」という存在を理解できるのだろう。
それは、鏡を覗き込むようでいて、実は底の見えない深淵を覗く行為だ。
統合失調症という言葉の裏には、無数の個人の物語がある。
狂気と呼ばれるその現象の中に、光が潜んでいることを、どれだけの人が知っているだろう。
私は、現実と心の境界を越えた。
その瞬間、世界は壊れ、同時に生まれ変わった。
そこには確かに恐怖があり、孤独があり、そして——理解の果てに広がる静かな美しさがあった。
人は限界に立たされたとき、初めて自分を外から見る。
その眼差しが「客観視」と呼ばれ、
その洞察が「深層心理」へと続くのだと、私は体験をもって知った。
もしあのとき、私が発症せず、平凡な日々を歩んでいたら、
おそらく、私はこの“境界の存在”に気づくことはなかっただろう。
進化とは、痛みを通してしか訪れない。
崩壊の先にこそ、再生の芽がある。
そして、その震えるような瞬間の記憶が、今も私の中で微かに鳴っている。
それが、進化の残響。
この音を聴いた者は、もはや元の世界には戻れない。
だが、戻れないことを恐れる必要はない。
なぜなら、境界の向こうにも、確かに「人間」がいるからだ。
そして今、私は静かに歩き出す。
誰の進化でもない、自分自身の進化を生きるために。
この作品は、私自身の体験を通して得た“意識の変化”を記録したものです。
統合失調症という現象を、単なる病としてではなく、「人間意識の進化の過程」として捉えました。
発症当時、私は自分を外側から観察し、他者の心の深層を読み取るような不思議な感覚を覚えました。
それは恐ろしくもあり、同時に、未知の光に触れるような瞬間でもありました。
十年後、脳血流画像で見た“真っ赤に燃える覚醒”は、
私にとって「崩壊から再生への証」でもありました。
『進化の残響』は、そんな体験の記録であり、
私が再びこの世界を歩き出すための“再生の詩”です。
もしこの作品を通して、
苦しみの中にある誰かが「これは進化の途中なのかもしれない」と思えたなら、
それが、私にとって何よりの救いです。

